奥之院一橋から案内

一  ノ  橋

司馬遼太郎文学碑

曽我兄弟供養塔

 この供養塔は、日本三大仇討ちで有名な、曽我兄弟と父親の供養塔と言われています。曽我祐成十郎と時致五郎兄弟が子供の頃父親の河津三郎を一族の工藤祐経に殺された為、兄弟で仇討ちを志し見事に目的を果たしたと言われています。

 石碑の銘文が不鮮明なため判りませんが、高野山古図中に描かれ、中央が父親河津三郎、左右が息子で祐成十郎と時致五郎の兄弟と思われます。

関東大震災霊牌堂

 西暦1923年(大正12年)9月1日、東京を中心に関東地方に大震災が起こりました。この時の東京市長・永田栄次郎氏が被災者の冥福を祈る為、私財を投じ霊牌堂を建立されました。この震災で、亡くなった人は10万人以上と言われ、この霊牌堂に納められている被害者の名簿は、当時の最新技術により約1万年以上保存できる処理をされていると言われています。

大泰景教流行中国碑

 この碑は、西暦1911年(明治44年)921日、エリダベス女王の願いにより建立され、高野山大僧正密門宥範、鎌田願應両師により開眼されました。

 中国のしきたりに従い亀座に立ち、文面は全32行、毎行62文字で、碑の上部に題額「大泰景教流行中国碑」と93行が刻まれています。

 景教とは、唐時代の中国で流行したネストリウス派のキリスト教の事でございます。中央に画かれた万字は大空に回転する太陽をかたどったと言われ、繁栄と幸福のシンボルとして古くから広く用いられています。

 万字には、右回りの物と左回りの物が有り、胎動曼荼羅は右回りの物が多く、密教では、五色の線で囲まれる三角印と四方に放たれる五色の光明を大日如来が一切諸仏を生み出して行く偉大な力にたとえられています。

 石碑背中中央部の大きな一切如来智印は、景教の光り輝く栄光と繁栄を表したもので、キリスト教の十字架と同様、偉大な神のシンボルと言えます。

 この碑の拓本が、英国ゴルドン夫人より金剛峯寺に奉納されており、そこには大泰寺の僧たちの名が原語の洗礼名と共に刻まれています。

熊谷直実と平敦盛供養塔

左側 平敦盛  右側 熊谷直実
左側 平敦盛  右側 熊谷直実

 この供養塔は、熊谷次郎直実が蓮生と名を改め、高野山に在住し、一の谷の戦いで自分が手に掛けた少年敦盛をいとおしく思い、その霊を弔う為、自分の墓と共に建てたと伝えられています。

大師爪彫り地蔵

 

 大岡越前守供養塔

 この供養塔は、江戸時代に明奉行と言われ、テレビ時代劇でも有名な、大岡越前守が大岡家先祖供養の為に、建立したと言われています。

 

常陸佐竹義重霊屋(重要文化財)

 佐竹義重は、常陸国(茨城県)の戦国大名の佐竹氏18代目。

 西暦1590年(天性18年)豊臣秀吉の小田原征伐が始まると、義重は子の義信と共に参陣して、石田三成の忍城攻めに参加する。その後、秀吉から常陸国54万石の支配が認められ、同国の統一を成し遂げた。

 高野山の義重の墓は、切妻間造り、檜皮葺の霊屋の建物で、正面に向かって右の柱に、「常陸の国佐竹為義重逆修造立之」。左の柱に、「旹慶長四年巳亥十月十五日」銘文があり、西暦1599年(慶長四年)1015日造立の年代を明らかにしている。壁面には五輪塔婆形の角材をならべ、中には五基の宝篋印塔を納めている。銘文を刻する柱など全体に朱が残り、建立当初は色彩が施されていたことが分かる。

 銘文の「逆修」とは、生前葬の事である。生きているうちに自分自身の葬儀をすることである。死者のために追善したとき、その福を七分として一分を死者が受け、残りの六分は追善を行ったものが受けると信じられていた。それで、生きているうちに自身の葬儀をする「逆修」をすると、受ける分の一分と行った分の六分の、七分の福の全てを自分自身が受け取ることになる。これを七分全得いった。まさに、「逆修」をする目的は、この七分全得にあった。

 義重も、慶長四年十月十五日に逆修して自身の葬儀をした後に、この霊屋を高野山に建てたのである。 

(戦国武将と高野山奥の院 石塔の銘文を読む、木下浩良氏より)

町石で20町石

初姫供養塔

    初姫の五輪塔です。

    父は徳川秀忠です、母は江で江の四女です、家光は弟になります。

               初姫は若狭の国小浜の京極忠高に嫁ぐが二人には実子は無かった。

    1630年3月4日に初姫は29歳で病死する。この五輪塔は京極忠高が初姫

    一周忌に建立されたものです。

 崇源院霊屋

 崇源院・お江の霊屋です。

 丸亀京極家の墓所に立つこの霊屋は、崇源院の姉で京極孝次の正室だった

 常高院・お初が1659年に建立されました。

 内部には無縫塔(卵塔)が収められている。

四国八十八ケ寺本尊

 

 紀州徳川初代藩主頼宣供養塔

 紀州徳川家初代藩主の徳川家康の10男で将軍家との関係が密接でした。

 最初、紀州藩は浅野家の領地で37万石余りでしたが、徳川頼宣が浅野家に代わり紀州徳川家の初代藩主になった時は、近辺の伊勢、大和の領地を含む55万石賜り、後の尾張、水戸と並んで御三家と呼ばれ栄華を誇りました。

写真スポット

 写真スポット

 木の根元に置かれた地蔵菩薩が、木の成長に伴って木の皮やコケでおおわれて

 地蔵菩薩が見えなくなってきています。

 

武田信玄と息子勝頼供養塔

左側 武田信玄 右側 息子勝頼
左側 武田信玄 右側 息子勝頼

 奥の院の参道を挟んで上杉家の霊屋と、ほぼ対の位置に武田親子の供養塔が有ります。信玄の碑面の表には、恵林寺殿とあり、裏面には、西暦1573年(天正元年)412日逝去とあります。

 勝頼の碑面表には法泉寺殿と刻まれ、裏面には、西暦1583年(天正10年)311日逝去と記されています。

紀州徳川七代忠将供養塔

 

上杉謙信と甥・景勝霊屋(重要文化財)

 戦国時代、越後の上杉謙信と、甲斐の武田信玄は好敵手でした。

 川中島を舞台にしての度重なる合戦は有名です。一応互いに和を結び、天下を統一する為、大軍を引き率いて都へ昇る途中、上杉謙信は、病に侵され48歳で波乱に富んだ生涯を終えました。

淀殿と秀頼供養塔

左側 息子秀頼  右側 淀殿(茶々)
左側 息子秀頼  右側 淀殿(茶々)

 

 伊達政宗供養塔

 伊達政宗は、16世紀後期の戦国時代の大名で、仙台藩605千石の初代藩主でございます。

 幼名は、梵天丸と申しました。

 幼小時に患った病気の後遺症で、右目を失明しますが、勇猛で知られた為、後に独眼竜正宗と異名をつけられた、戦国時代を代表する武将の一人でございます。

 

 井伊直弼墓所

 

 

 井伊直弼は、近江彦根藩の第15代藩主です、幕末期の江戸幕府にて大老を務め開国派として日米修好通商条約に調印し日本の開国・近代化を断行した。また強権を持って国内の反対勢力を粛正したが、それらの反動を受けて1860年3月24日登城途中の江戸城桜田門外で脱藩の水戸士17名と薩摩藩士1名に襲撃されて暗殺される。

 

 

石田三成供養塔

 石田三成は、16世紀安土桃山時代の武将で政治家でございました。

 近江の国阪郡石田村に生まれ、豊臣秀吉の引き立てが厚かったので、秀吉亡き後は、実質的に国政をうごかす立場にありました。

 しかし、関ヶ原の合戦で、徳川家康に大敗を喫し、伊吹山中に逃れたものの、とらえられ40歳という若さでしたが、京都七条川原で処刑されました。

 明智光秀供養塔

 明智光秀は、西暦1582年(天正10年)主君・織田信長を本能寺で倒しましたが、京都山科の戦いで羽柴秀吉に敗れ敗走中、竹藪の中に潜んでいた百姓に竹槍で突かれて命を落としました。光秀家臣津田茂久は、この山崎の戦いで敗れて高野山に逃れ、定光院に隠れ住んでいましたが、御神仏とお金を僧に託し、主君光秀の追善供養を願って、供養塔の建立を依頼して高野山を降りました。

 この供養塔、水輪が割れているのは、主君を裏切ったから何回立てても割れると言い伝えられています。

本田忠勝と夫人 於久の方の供養塔

左側 夫人於久の方供養塔 右側 本田忠勝供養塔
左側 夫人於久の方供養塔 右側 本田忠勝供養塔

右側が本田忠勝の宝篋印塔です。忠勝は、徳川方の武将で伊勢桑名藩主だった。その後各地を転付を繰り返し、三河岡崎藩で明治維新となる。

左側は、正室の於久の方の宝篋印塔です。忠勝との間には二男一女をもうける。

 

柴田勝家供養塔

 

初代市川團十郎供養塔

 初代歌舞伎俳優・市川團十郎の供養塔でございます。

 成田屋の屋号を名乗る市川團十郎は、代々、成田山とは、深くて強い縁で結ばれています。初代市川團十郎は、江戸時代の西暦1660年(万治3年)に生まれ、父親が成田市の出身なので、今でも、成田市の東光寺に二代目が建立した初代の供養碑がございます。

 

中  の  橋

 この橋は、一橋と御廟橋の中間にあるので、中の橋と言います

 正式には手水橋と言われ、平安時代には、この場所で、身を清めていました。

 ここを流れる川は、昔から金の河と呼ばれ、金は死の隠語を表し、死の河、つまり三途の川を表しているそうで、この橋を渡ると、これから先は、死の世界の入ると言う意味になるようでございます。

 

汗かき地蔵

 中の橋を渡ると、すぐ汗かき地蔵が祀られています。

 この汗かき地蔵は、世の中の人々の苦しみや、悲しみを身代わりになり一心に受いるので、いつも汗をかいているように見えるので、汗かき地蔵というそうです。

 

姿見の井戸

 昔からこの姿見の井戸を覗き込んで、自分の姿が映れば長生きし、もし映らなければ三年以内の寿命と言う、怖い言い伝えがございます。

 上智禪尼供養塔

 

 この墓標の上に耳を当てると善人には極楽の音が、

 悪人には地獄の音が聞こえるそうです。

 

密  厳  堂

 このお堂は、真義真言宗の開祖・覚鑁上人・興教大師が祀られています。

 覚鑁上人は、真言宗の中興の祖と仰がれる高僧で、西暦1095年(嘉保2年)に佐賀県に生まれました。13歳の時、京都御室の寛助僧正から出家得度され、20歳で高野山に登り弘法大師の真言宗開教の本旨を深く尋ね、38歳の時、鳥羽上皇の、許しによって大伝法院を建立し、その後は、大伝法院と金剛峯寺の座主を兼ね、高野山全体を統治された方でございます。しかし、覚鑁上人の名声に反感をと、ねたみを持つ者により遂に、西暦1140年(保延6年)暮れの暴動によって弟子一同と共に、根来寺に移られ西暦1143年(康治2年)12月、49歳の人生を閉じられました。

奥之院参道の風景

 

高麗陣敵味方戦死者供養塔

 この供養碑は、豊臣秀吉の命令で、朝鮮に軍を進めた薩摩藩主・島津義弘と、その子忠恒によって、朝鮮における敵と味方の戦死者の御霊を慰めるため、西暦1599年(慶長4年)6月奥の院参道・薩摩藩主・島津家の墓地内に建立されたものでございます。

 日本武士道には、戦いの中においても、敵味方を超えた平等愛があったことを示すものとして、有名でございます。

信州真田旧伯爵家供養塔

 

前田利家とまつの供養塔

左側 前田利家  右側 夫人まつ
左側 前田利家  右側 夫人まつ

浅野長晟夫人 振姫(二番石)

 浅野長晟夫人振姫の五輪塔です。

振姫は徳川家康の三女として生まれる。秀吉の命により、蒲生秀幸に嫁ぎ二男一女を

もうける。とこうが夫秀幸が1612年に急逝します。こんどは家康の命にり、1615年

浅野長晟と再婚する。1617年に浅野光晟を生むが、その16日後に死去する。

享年38歳だった。

この五輪塔は夫浅野長晟が振姫一周忌際に建立されたものです。

奥之院で二番目に大きな五輪塔で二番石と呼ばれっています。

 ビルマ塔(パコダ)

続きは奥之院2をご覧ください。

金剛三昧院の石楠花
金剛三昧院の石楠花
御幣納め
御幣納め
ローソク祭り
ローソク祭り
紫燈大護摩供
紫燈大護摩供
大  滝
大  滝