奥之院を案内

中の橋から奥之院入り口

親鸞聖人霊屋

 この供養塔は、浄土真宗の開祖・親鸞上人の供養塔でございます。

 9歳で天台宗の京都で・清蓮院の慈円について出家・得度し、以後、比叡山で20年間修業され、29歳の時法然上人に入門されました。

 その後、法然上人の流罪の際に、親鸞上人も越後へと流され、北陸・東北・関東方面へと布教の旅に出て、西暦1262年(弘長2年)1128日・ご入寂されました。

 高野山には宗派を超えて親鸞上人ゆかりの彫刻や絵画が数点残っており、親鸞上人をしたい、今も数多くの人々が、登山されています。

東日本大震災供養塔

東日本大震災

2011年(平成23年)3月11日午後2時46分東北地方太平洋沖地震による災害及びこれに伴う福島第一原子力発電所事故による災害である。

津波では壊滅的な被害と多数の犠牲者が出ました。原子力発電所の事故では環境汚染や風評被害など帰宅困難な地域もあると伝えられています。

阪神淡路大震災供養塔

阪神淡路大震災

1995年(平成7年)1月17日午前5時46分に神戸、淡路を中心に阪神地方を襲った大地震です。犠牲者6.434人にもおよび壊滅的な被害をひきおこしました。

楽  書  塚

楽書塚と花菱あちゃこ句碑

柳谷金五郎さんが建てた楽書塚です。旅の思い出や思っていることを「落書」じゃなく楽書してほしと、また此処だったら楽書をしても良いから寺などにはしないで下さいとの思いを込めているのでは。

右側には、花菱あちゃこさんの句碑があります。

 

 「笑われて 浮世をおくる 顔にで来 」

 

 

崇源院供養塔(一番石)

 この五輪塔は、徳川二代将軍秀忠公の子で、駿河大納言忠長公が1627年母君お江の供養の為に建立されました。

 高さは6.6m、台石の広さは畳八畳敷きで奥の院の供養塔の中で最も大きく、

 一番石と呼ばれています。

 完成まで3年の歳月を要したそうですが、およそ350年以上経過しても石積みには狂いが無いようです。

千姫供養塔

 徳川二代将軍・秀忠公の息女、千姫でございます。

 7歳の時、祖父・徳川家康の婚姻政策により、豊臣秀吉の子秀頼に嫁ぐのですが、大坂夏の陣によって秀頼とその母淀君が徳川家に敗れ自害し遂に豊臣家は滅んでしまいます。その後千姫は本田忠刻と再婚するのですが、長男が3歳で亡くなり、夫忠刻も、その5年後に亡くなってしまいます。

 30歳の時姫路城を去り、天寿院と名乗り江戸城竹橋御殿にて余生を送り、西暦1666年(寛文6年)70歳の生涯を閉じました。

化粧地蔵

奥之院で有名な化粧地蔵です。

この地蔵を化粧すると奇麗になるとの言い伝えで女性方が自身の化粧道具で

化粧されています。

大津城籠城と京極高次供養塔

大津城籠城犠牲者の供養碑   京極高次の宝篋印塔

 

京極高次は、京極高吉と京極マリア(浅井長政の姉)長男として浅井氏の居城である近江国の小谷城で生まれる。

 関ヶ原の前哨戦である大津城の戦いでは、居城の大津城に籠城し西軍の立花宗重をはじめとする一万人を超える大軍勢を食い止め、関ヶ原の主戦場へと向かわせなかった。戦後その功により若狭国(福井県)を与えられる。近世大名の京極氏の礎を固め、お家最高を果たす。西暦1609年(慶長14年)53日に47歳で没する。

 (戦国武将と高野山奥の院 石塔の銘文を読む 木下浩良氏より)

浅井長政供養塔

 浅井長政は戦国時代の武将で、北近江の戦国大名。浅井家の三代目にして最後の当主である。夫人に織田信長の妹のお市の方を迎える。

 信長と同盟を結ぶなどして近江国の大半を支配下に置いて、浅井氏の全盛期を築く。後に、朝倉義景や石山本願寺と結んで信長と敵対するが、姉川の戦いで敗退、西暦1573年(天正元年)居城の小谷城(滋賀県長浜市)を織田軍に攻められて、9月1日敗れて自害。浅井氏は滅亡した。お市の方と娘の浅井三姉妹は救出され、織田家に引き取られる。長政の墓所は、滋賀県長浜市徳勝寺。

 (戦国武将と高野山奥の院 石塔の銘文を読む 木下浩良氏より)

松尾芭蕉句碑

 この句碑に掘られた文字は、池大雅筆跡で、「父母のしきりにこいし雉子の声」の句が刻まれています。

 故郷伊賀上野にて父親年忌を済ませた芭蕉が、高野山を訪れた際、雉子の声を聞き、父母の恋しさが募り、この句を詠まれたそうです。

 この句碑の裏には、西暦1775年(安永4年)1012日に建立と書かれています。

加賀前田家供養塔

前田利家公は、五大老の一人として、太閤・秀吉を補佐する家臣の中でも筆頭格の地位にありました。秀吉の信頼が厚く、秀頼の後見を任されますが、自ら健康を害し、秀吉亡き後は、徳川家と天下を争わず、前田家の将来を考え、家督の存続を選択したと伝えられています。利家以来の前田家は、加賀の地に百万石を誇る大名として他の諸大名とは違い、徳川の時代においても繁栄を極めました。

圓光大師法然上人供養碑

 この供養塔は、浄土宗開祖、円光大師法然上人の供養塔です。

 法然上人は、浄土宗を全国に広められた高僧でございます。

 高野山は、真言密教の根本道場だけではなく、密教の大きく深い教えと、お大師様の、おおらかな性格が、高野山を八宗兼学と天下の総菩提所にされた事が、他宗派の開祖となったほどの高僧達でも弘法大師の近くで供養されたいと願わせるものでございます。

安芸浅野家供養塔

左側 浅野長晟供養塔 中央 浅野長政供養塔 右側 浅野幸長供養塔
左側 浅野長晟供養塔 中央 浅野長政供養塔 右側 浅野幸長供養塔

越前松平家石廟

左側 母長勝院霊屋   右側 結城秀康霊屋
左側 母長勝院霊屋   右側 結城秀康霊屋

 

結城秀康の石廟です。

結城秀康は安土桃山時代から江戸時代の武将です。秀康は徳川家康の次男として生まれます,後に豊臣秀吉に養子として差し出されますが秀吉に実子鶴松が誕生すると秀吉は秀康を結城家に養子に出してしまいます。

 向かって右側の入母屋造で唐破風つきが結城秀康の石廟です、この建物の材料に使われている石は福井県の笏谷石です。石造りだが一見木造建築を思わせるものとなっている。屋根瓦まども笏谷石が使われている。

 この建物は、1607年(慶長12年)秀康の長男松平忠直が建立された。

 左側の切妻造りのものが生母長勝院で家康の側室、於万の方の石廟です。壁面には、仏・菩薩・天人像を浮き彫りし荘厳さを際立たせている。

 この建物は1604年(慶長9年)秀康が建立されました。

 両方の内部には宝篋印塔が建てられて、梵字には金箔が施されてまた壁や天井は装飾されていて国の重要文化財に指定されています。

 戦国武将と高野山奥の院 石塔の銘文を読む、木下浩良氏より引用)

 其角句碑

其角句碑です。

 

「卵塔の鳥居やげにも神無月」

豊臣家墓所

 この墓所の正面には、豊臣太閤秀吉、その母公、大納言秀長、と夫人の墓がございます。織田信長に続いて、高野山攻めを行った太閤秀吉は、高野山の木食応其上人の説得により、高野攻めを取り止め、木食応其上人を心より信仰して、その後の高野山の復興に努められました。

漢字標記の五輪塔

織田信長と筒井順啓供養塔

 織田信長は戦国時代から安土桃山時代の武将、信長は、高野山を攻めたことで知られている。高野山は信長に反旗を翻した荒木村重の残党を匿ったりして信長と敵対した。信長は高野聖を数百人とらえてこれを誅し、高野を包囲させた。西暦1582年(天正10年)62日の本能寺の変が勃発し、信長軍に包囲されていた高野山は、危機を脱したとされる。

 そのような状況であったにも関わらず、高野山奥の院に信長の五輪塔が存在する。

 かって敵対した武将であっても、供養の為には受け入れる高野山の懐の深さを垣間見る。 (戦国武将と高野山奥の院 石塔の銘文を読む 木下浩良氏より)

御 廟 橋

 この橋を渡ると、大師御廟への霊域に入り、高野山でもっとも神聖な場所です。

 先ず、橋の前で服装を正し清らかな気持ちで合掌一礼して橋を渡ります。

 この橋は、36枚の板橋で構成され全体を1枚と数え金剛界37尊を表していると言われ、橋板の裏には、金剛界の仏様の梵字が一枚ずつ刻まれていて、運が良ければ太陽の光が反射して川に梵字が映ることがございます。

みろく石

この石には、重軽石の信仰がございます。善人には軽く、悪人には重いと言わています。本来は、弥勒菩薩との縁を結ぶための結縁石と言われています。

 仙  陵

  明治天皇以前の歴代9名の天皇と皇后、皇族方の歯や爪が祀られている供養塔でございます。

 

 燈 籠 堂

 燈籠堂は真然大徳が始めて建立し、その後、藤原道長によって西暦1023年(治安3年)に現在に近い大きさの燈籠堂が建立されました。

 堂内には、千年以上燃え続けていると言われる二つの「消えずの火」がございます。一つは白河上皇が献じた白河灯。もう一つは、祈親上人が献じた祈親灯でございます。この祈親灯の事を、祈親上人の勧めで貧しい生活の中、自分の髪を切り売って工面したお金で、献灯した貧女の一灯と言われ、それに合わせて白河灯の事を、長者の万灯と呼び、貧女の一灯、長者の万灯の伝説が残るお堂でございます。

 納 骨 堂

 この納骨堂は、最初、第75代崇徳天皇と皇后によって創建されました。

 高野山は昔より納骨の山と言われ、全国各地より遺骨や爪髪が、弘法大師御廟の周辺に埋める習慣がありました。この納骨堂は、そう言う遺骨や爪や髪をおさめるためのお堂です。

 現代の建物は、西暦1926年(大正15年)に宝形造り八角円堂として再建され、今日に至っています。

 弘法大師御廟

 この弘法大師御廟は、大師信仰の中心聖地でございます。

 天軸、楊柳、摩尼の三山や千年杉に周囲を囲まれ、奥深く厳かな、たたずまいを見せています。

 お大師様は、西暦835年(承和2年)321日寅の刻、御年62歳で、予てからの予言通り御入定なさいました。

 玉川の清流沿った大地に、ご入定前には、既に納涼坊、総修堂が建立されており、お大師様自ら廟所ときめられていたとも伝えられています。

 御入定後、お弟子たちは、予定通リその場所に御廟を建立され、御入定後86年を経て、西暦921年(延喜21年)醍醐天皇より弘法大師の諡号を賜りました。

この御廟で祈れば、お大師様は必ず答えて下さると言われており、入定留身の聖地として今日なお廟前に祈りを捧げる参拝者が絶えま

 一切経蔵

 この経蔵は、豊臣家家臣、石田三成が母公供養の為、西暦1599年(慶長4年)に建立されました。

 経蔵内には、高麗版一切経6557巻が納められていました。

 経蔵並びに一切経は、共に重要文化財に指定されています。

 燈籠堂地下

 燈籠地下は、西暦1984年(昭和59年)のお大師様御入定1150年御遠忌大法会の際に、造られました。

 地下通路を通り正面に行くと、大師御廟に向かつてお祈りすることが出来ます。

 通路の両側には、少しでも、お大師様のそばで祀られたいと、全国の人々が納められた、身代大師五万体奉納され配列されています。

水向け地藏と水行場

 玉川の清流を背にして金仏の地蔵菩薩や不動明王、観音菩薩が並んでいます。

 奥の院に参詣する人々は、御供所で水向け塔婆を求めて、このお地蔵さん納め、水を手向け鮮度の冥福を祈ります。

生身供

御 供 所

頌 徳 殿

応其上人霊屋

浅野内匠頭と赤穂四十七士供養塔

 この供養塔は、赤穂浪士による主君の仇討ち物語・忠臣蔵で有名な、赤穂藩家老の大石内蔵助が主君浅野長矩の冥福を祈って建立したものです。

 後に主君の供養塔の横に、並んで家来四十七士供養塔も建立されたそうです。

無 縁 塚

 奥の院に新燈籠堂を立てる際、基礎工事中に地中より掘り起こされた地蔵尊、無縁仏を一堂に集め無縁塚として、全ての霊の冥福を祈る為に建立されました。

金剛三昧院の石楠花
金剛三昧院の石楠花
御幣納め
御幣納め
ローソク祭り
ローソク祭り
紫燈大護摩供
紫燈大護摩供
大  滝
大  滝