大門は、11世紀末に高野山の総門として現在の場所に建てられましたが、お大師さまが高野山を開創当初は現在地より少し下がった九折谷に鳥居が建てられていました。
現在の建物は、西暦1705年(宝永2年)に再建されたものです。
両脇の金剛力士、右側は、阿形像で江戸時代の仏師、康意、左側は、吽形像で法橋運長による大作でございます。
中央の門柱に掲げられている二枚の聯は、後宇多天皇の宸筆を臨書したものです。右側【日々の影向をかかさずして】左側【処々の遺跡を検知す】意味は、お大師さまは、今も毎日かかさずお姿を見せておられ、かって人々のために行った事業の跡や、修行の跡を見て回っておられる、という内容で、同業二人の信仰を示しています。
この建物は、正面桁行21.4m、梁間7.9m、たかさ25.1mで重要文化財に指定されています。晴天の折には、遠く淡路島も望むことが出来、また、ここから望む夕日は非常に綺麗なことから夕陽百選にも選ばれています。
大門付近の町石
助けの地蔵
高野に住むおじいさんが熊野辻を歩いていると助けを求める声がしました。声の方向をさがすと谷に地蔵が落ちていました、引き上げて道脇に安置しましたが、人通りも少ないので高野山に連れ帰り、龍神口に近い今の場所に祠を建て供養しました。願い事は一度だけ叶えてくれるそうです、御礼は丸い物を供えると良いそうです。
ここからも、大門と同じく、夕日は大変綺麗です。
霊 宝 館
現在、霊宝館では、国宝21件、重要文化財143件、和歌山県指定文化財16件、重要美実品2件、合計182件、約2万8千典弱を収蔵し、未指定ともなると5万点以上を数える。この建物は、西暦1921年(大正10年)建立されました。建物の様式は、宇治の平等院を模した優美な姿を見せております。また、登録有形文化財にもなっています。 西暦1961年(昭和36年)には大宝蔵と呼ばれる収蔵庫が増設され、また、西暦1984年(昭和59年)、西暦2003年(平成15年)と続いて近代的な収蔵庫が設立されました。
大師教会
この建物は、全国の高野山金剛講支部、大師教会支部、高野山宗教舞踊総司所と百万会講員を統括する総本部で、高野山の宗教活動の中心的な建物となっています。この大講堂は、西暦1951年(大正4年)開創1100年記念事業として建立されました。毎年全国詠歌大会、宗教舞踊大会は、この大講堂で開催されています。
また、受戒堂においては、私たちが日々生きていく上での心情とも言うべき菩薩十膳戒を真っ暗なお堂の中で受けることが出来ます。
六時の鐘
1618年福島正則公が父母の追福菩提を祈って建立された。
1636年正則の子で正利が再鋳された。
朝6時から夜10時まで2時間おきに時を告げています。
普賢院四脚門(重要文化財)
徳川家霊台(重要文化財、世界文化遺産)
西暦1643年(寛永20年)三代将軍家光が建立した江戸時代の代表的な建築物でございます。建物の内部は漆、金箔、壁画等で宝飾され一重宝形造りの同じ建物が左右に並び、右が東照宮家康霊屋。左が秀忠霊屋で、何れも高野聖たちによって建てられたと記録されています。
女人堂
高野山は、明治の初めまでは女性が高野山内に入ることを禁じていました。
そのため、女性信者は御廟を拝みたいと八葉蓮華の峰々をめぐる女人道を辿ったと言われています。
金剛三昧院(世界文化遺産)
この多宝塔は、源頼朝、実朝の御霊を供養するため、西暦1223年(貞応2年)頼朝の妻北条政子により建立されたものでございます。
現在、高野山に現存する最古の多宝塔で、鎌倉様式を残す数少ない建物でございます。
西暦1900年(明治33年)4月には、国宝に指定され、また、西暦2004年(平成16年)には、世界文化遺産にも指定されています。
刈 萱 堂
刈萱道心と石堂丸は、約四十年の長い間、この刈萱堂で修行されました。
堂内には、親子地蔵尊を祀り、刈萱親子一代記の彫刻画を額に入れて掲げています。石堂丸は父親を捜すために母親と共に高野山の麓まで来ましたが、当時、高野山は女人禁制により、高野山に入れない母を学文路の宿に残して、一人で高野山に登りました。しかし、石堂丸の帰りを待たず、母親は病気を患い亡くなってしまいます。
父の刈萱道心は、自分も修行の身であるため、石堂丸を自分の子供と知りながらも名乗りを合わないまま、共に刈萱堂で修行をされたと伝えられています。
この刈萱道心と石堂丸の悲しい物語は、現在も、高野山にまつわる伝説として言い伝えられています。